検疫事業に挑んだ日本人 後藤新平

新型コロナウイルスの勢いが止まらない。

中国の武漢から発生したウイルスが、こんなに世界中に拡散し、十数万という死者が出て留まるところを知らないとは恐ろしいことだ。この未曽有の事態に、我が国の対応はどうなのか。批判や悲鳴が聞こえてくるが、過去に似たケースはなかったのだろうか。

新聞や雑誌を読んで時々目に留まったのが、明治に検疫の大事業で活躍した後藤新平の事だ(以下『明日への選択』4月号を参考)。

日清戦争後、コレラが猛威を振るう中国から復員してくる約23万人の兵士に対し、検疫が急務とされた。この大事業を任せる人物として、児玉源太郎(陸軍次官)に抜擢されたのが、内務省衛生局長の後藤新平である。

検疫を行う場所は広島の似島(にのしま)、山口県の彦島、大阪の桜島の三か所。似島では一日6千人、彦島・桜島では各一日3千人を想定していた。その三か所に消毒部、停留舎、避病院、兵舎、火葬場、汚物焼却場等々を建設。そして大蒸気消毒缶(大型の蒸気式消毒缶、ボイラー)を導入した。

検疫担当者の訓練をし、検疫の対象となる兵士への対策にも配慮(「臨時陸軍検疫所消毒場案内」というリーフレット作成)した。検疫事業に理解を得るため、前日に一般民衆に施設の参観機会も与えた。

検疫の手順はこうだ。

入港した船舶は海上で検疫官の臨検を受け、患者があるときは運搬船をもって避病院に送る。臨検が終わった船舶は検疫場へ進む。兵士は沐浴で身体を消毒、被服携帯品等は大蒸気消毒缶で消毒される(3月19日産経新聞「正論」(渡辺利夫氏)によると、「兵士を消毒罐の中で15分間、60度以上の高熱に耐えさせコレラ菌を消滅させる」とある)。

「コレラ病を載せて検疫所に入港した船は実に121隻、その患者死者の数は752人、これに停泊中に発病した患者数は821人。一方、検疫を終えて家への帰途中に発病した者はわずか37人。」(『明日への選択』4月号)という。

こうした難事業を成功させた過去が日本にはあった。

日本には難局を乗り越える智慧も力もある。皆で手を携えて頑張っていこう。(和)