『スターリン教室』

私小学5,6年生の2年間で経験した話です。

小学5、6年生で共産主義社会の恐怖を味わったと言うと大袈裟なと思われるかもしれませんが本当に恐怖の2年間でした。

小学5年生の新学期の時に朝礼で校長先生から「新しい先生の紹介があります。」と言われて女性の先生を紹介してくれました。若くて綺麗な先生だと思い担任の先生になって欲しいなと思っていたら「5年1組を担任します。」と先生は言われたので私は心の中で(やったー!)と思って嬉しかったのですが、それがまさかの悪夢の始まりでした。

最初のうちは皆、普通の先生だと思っていたので普通に子供らしく休み時間にはふざけあったり、追いかけっこや色々と遊んでいましたし男子は授業中にチョット悪ふざけもしたり先生にも少し生意気な口をきく子もいました。

でも次第にそれらに対する先生の怒り方は凄まじくなり些細なことでも許されなくなってきました。担任の前田(仮名)先生は今で言うホームルームで当時は反省会と言っていたのを授業後にやっていたのですが最初の頃はまだ和気あいあいとしいましたが前田先生は許さずクラス内で問題のある行動をとるクラスメイトに対してこの反省会でしっかりと話し合うように厳命しました。それで男子がこうふざけたとか授業中黒板のほうを見てなかったとか掃除を熱心にやらなかったとか段々とエスカレートしていきました。反省会に同級生に名指しで罪状を言われると言われた子立たなくてはならず皆に糾弾され心からの反省を求められます。反省が感じられないとなると何日も何日も毎日、反省会の度に立たされ反省を求められます。先生はその間、怖い顔で反省会で糾弾された子を睨み付け「本当に反省しているの?」と(だいたい最後のほうですが)厳しくなる問い詰めてその子の「本当に申し訳ありませんでした。反省しています。ごめんなさい。もう二度としません」と言う言葉でようやく許されれるのです。

しまいには私達は先生の顔色だけをビクビクと見るようになりました。毎日の反省会は恐怖でしたし普段の授業でも、些細な事で前田先生の怒りをかえば何時間も授業を潰してでも些細な事で大声でずっと𠮟り続けます。そしてその事がまた反省会に出され皆に糾弾され反省を求められます。

私自身も物凄く先生を怒らせてしまった事がありました。確か6年生の2学期の頃、眼にばい菌でも入ったのか上瞼が少し赤く腫れて痛くなっていたのを先生が目ざとく見つけてくれて帰宅したら眼医者に行きますと先生と約束したのですが帰ったら腫れても引いて痛くもなくなっていたので母がもう夕方で遅いし(眼医者は某駅の近くの当時は一軒だけで都電で行っても帰りは結構遅くなってしまう)もう少し様子を見たらどうだいと言ったのと当時は学校から帰ってきたらお風呂の薪を割ってくべて祖父母の為にお風呂の準備をしなくてはならなかったし7歳下の妹の面倒も忙しいは母に代わってみなくてはならず色々とやる事もあったので、物凄く気になったのですが様子を見る事にしましたと言って謝れば許してくれると今から思えば少し甘く考えてしまいました。次の日先生に謝罪したのですが先生は激怒し「昨日は眼医者に行くって約束したしたでしょう。何故、行かなかったの、許さない、絶対に許さない。」と言って「今日からあなたは今の席でみんなと一緒に授業を受けるのは許さない、」と言われ机と椅子を先生の隣に持って来さされ、当然、反省会に出され約、一ヶ月間先生の隣の席のままで毎日、反省会で「反省せよ」とクラス全員と先生から責められ糾弾されました。この時は本当に自殺したいと毎日、考えてました。本当に辛かった。

私達は皆、天真爛漫な子供らしさを失くしていきました。皆、反省会が怖くて怖くてそして自分が反省会に立たされる前に誰かを犠牲にしようと獲物探しに必死になっていきました。6年生の3学期の始めた頃だったかこの当時は誰もがいい子になり気をつけていたので反省会の獲物がいなっかったのですがそれがかえって皆を不安にさせ誰かを犠牲にしなければならないと思い詰めるようになりました。そんなクラス中に鈴木(仮名、女子)さんが何さんから教材を受けとったのにお礼を言わなかったとか(後はちょっと忘れてしまいました。些細な事だったと思います)噂がたち反省会に持ち込まれれました。鈴木さんは優しくて勉強も頑張る人でしたが私達は今から思えば酷いとは思うのですが反省会で犠牲者が見つかった事で皆、「ほっ」としてました。誰かが反省会にかけられていれば自分達はその間は無事でいられるからです。

ある日先生が一週間ほど私達に何も言わず(6年生の2学期の終わり頃だと思ったけど)突然休んだ事がありました。(卒業間際に先生から結婚式と新婚旅行の為と教えてくれました。)普通だったら担任の先生がいなければ羽目を外すところですが私達は全然違いました。先生がいなくてもキチンと一糸乱れぬ行動をしました。(よく北朝鮮の生徒が他の国の見学者に見せるように)なぜならばちょっとでもふざけたりしたら先生が戻った時に反省会で餌食になってしまうから。この一週間の私達の行動は校長先生や他の教師の方々に素晴らしいと絶賛されたと後から聞きましたが私は複雑な気持ちでした。

卒業するまでずっと緊張感と息をひそめるような状態は続きましたがやがて卒業式を無事に終えて4月から中学生になった時、最初の頃は何となくビクビクしてましたが、でも

次第に「そうだ、もう前田先生はいないんだ、もう自由なんだ、もう反省会もないしビクビク怯える事はないんだ」とようやく芯から「ほっ」としたのを覚えています。

勿論、当時は共産主義の事なんて全然知らなかったし本当の共産主義国のように当たり前ですが収容所や処刑があったわけではありませんが本当に毎日が怖くてたまらなかった。

先生は私達の後に3、4年生の担任になったのですが私の従兄弟がそのクラスにいて、やはりあまりの厳しさに従兄弟は未だに私に会うと「あの2年間は恐怖の2年間だった」だったと言います。もう孫もいる従兄弟ですが未だにトラウマになっているようです。

私は中学1年の2学期に引っ越してきたので噂でしか知らないのですが先生はその後、1、2年生の担任になったようですが、やはりあまりの厳しさに親が立ち上がったそうです。(私達の親の世代は3歩下がって師の影踏まずの世代なので誰一人先生に文句言う親はいませんでしたが1年生ぐ

らいだと親も若い世代になっており、、そこは先生の誤算だったのではないかと思います。)親が立ち上がった事で先生は1年生で教師を辞められたと聞きました。

私は長じて(と言っても結婚した後からですが)共産主義系の本を読み(収容所列島、凍土の共和国、北朝鮮消えた友、チャイルド44、など)5、6年生のあの時の状態によく似てると思いました。前田先生が共産主義思想に心酔していた人だったのかどうかはわかりません。もしかしたら只、単に理想的な美しい教室を作りたかったのかもしれません。

でも思います。あの教室は恐怖の「スターリン教室」だったと。

(葉)