葛城奈海氏講演会「君民一体の大和の国を受け継ぐために」⑤

②ペリリュー島(パラオ諸島)

「ペリリュー島では中川州男(なかがわくにお)大佐が有名です。中川大佐は島民との間に兄弟のような関係を築いていました。

米軍の上陸直前に島民達は『我々も一緒に戦わせて下さい』と申し出ました。しかし、その時大佐は『貴様ら土民と一緒に戦えるか!』と追い返しました。

島民はびっくりしました。日本人は欧米人とは違うと思っていたのに・・日本人も我々を見下していたのか・・と。

島民を乗せた船が島から離れると(ペリリュー島の島民は米軍が上陸する前に別の島に疎開することになった:筆者補足)、ジャングルから日本兵達が出てきて島民に向かって手を振り、『達者で暮らせよ!』と叫んでいた。

島民達はその時『そうか、日本兵は我々を見下していたのではない。我々を安全な場所に逃がしてくれるために、わざとつれない事を言ったのだ』と涙に暮れたといいます。

数年後、島民達が島に戻ると、島の形が変わるほどの爆撃の跡があり、日本兵は玉砕したと知り、島に残っていたら自分たちの命はなかったと改めて感謝と畏敬の念が増したといいます」

「ペリリュー島に行く前に児島襄氏の『天皇の島』という本を読みました。

その本によると、米軍司令官は上陸作戦前にこの島をみて『スリーデイズ・メイビー・ツー』(こんな島は3日ないし2日で落とせるぜ)と言ったそうです。ところがそうはいかず、日本兵は後から後から湧いてきて勇猛果敢な戦いをした。そうして爆撃から74日間(上陸戦からは71日間)、日本軍は持ちこたえました。

そうしたことを知った上で島に向かうと、本当に薄くて小さな島でした。ここで74日間も持ちこたえたのか、先人の戦いぶりは人間業ではないなと思いました。」

「そこで思ったのは、戦後日本の平和を守ってきたのは、憲法9条では勿論ない。日米同盟でもない。『こんな人間業とは思えない戦い方をする日本人とは、もう金輪際戦いたくない』と思わしめた先人たちの戦いぶり、精神であったと確信しました。その時改めて先人達に感謝と畏敬の念が湧き上がってきました」

「中川大佐をはじめ日本兵たちは生きてこの島から帰れないと分かって戦っていた。分かった上で自分たちの体を囮(おとり)にして一日でも長く米軍を引き付けておくことが、愛する家族や祖国を守ることになるのだと信じて命の限り戦い続けて下さったのだと思います」

「ペリリュー島神社の一角に白い石碑が立っています。そこには米太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督の言葉が刻まれています。

『諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢に愛国心を持って戦い そして玉砕したかを伝えられよ』

敵軍長官にもそう言わしめた先人たち。戦後、米軍はペリリュー島を『天皇の島』と呼びました。それは日本人の力の源が天皇にあると悟ったからです」

「74日間の戦闘の間に、天皇陛下は11回の御嘉賞(ごかしょう)(お褒めの言葉)を送られています。天皇陛下は、我が子のような日本将兵たちが命を懸けて国のために戦ってくれていることに対し、心から感謝されていたのではないかと思います」

「皆さんは『大和魂』とはどんな魂を想像されますか。特攻隊に象徴されるような“荒ぶる魂”でしょうか。

『大和』とは、“大きな和” “世界の平和”を求めている心ということだと思います。しかし“和”とは、いつもニコニコ笑っていれば保たれるものではありません。一線を越えたときには戦ってでもこの和を守るのだという荒ぶる魂に裏打ちされてこそ保たれるのが“和”だと思います。

神道には『和魂』と書いて『にぎみたま』、『荒魂』とかいて『あらみたま』という魂があります。一見相反する魂なのですが、“和”を守るための“武”ということで、表裏一体になったものこそが『大和魂』ではないかと思います。

それを受け継いでいるのが私達日本人だ、いうことを知らないのがあまりにも勿体ないと思います。

『大和魂』を受け継いでいるということに気付いて、それに誇りをもって、それに見合う生き方をすることが、日本を取り戻すということに繋がるのではないかと思い、私は日々活動をしております。本日は有難うございました」(和)