投稿文「古文漢文を守れ」

山之邉雙氏よりご投稿をいただきました。ありがとうございます。ここに掲載させていただきます(仁)。

古文漢文を守れ

 

私は前々から、百田尚樹氏のファンです。日本文化を守ろうという意欲は頼もしく感じられます。

最近は、もう一人、「2ちゃんねる」「5ちゃんねる」の創始者・ひろゆき(西村博之)氏の評論にも感心しています。こちらは良識派(朝日新聞とは逆の意味の良識派)で、世の中の現象を緻密に分析しているのが面白いと思います。

 

ところが、その百田氏とひろゆき氏の両方が、とんでもないことを言い出したので、苦言を呈します。

百田氏は平成二十九年(二〇一七)に、SAPIO誌上で、「漢文の授業を廃止せよ」と主張しました。漢文などを習っていると、中国が偉大な国であると考えるようになってしまうから、というわけです。

そして、今、この四月(二〇二二)になってから、ひろゆき氏が、「古文漢文オワコン論」を唱えています。「オワコン」というのは、「終わったコンテンツ」ということで、もう時代遅れになってしまったから棄ててしまえ、と西村氏は主張するのです。

 

百田氏は漢文教育を廃止しろとだけ言って、古文には触れていませんが、ひろゆき氏はどちらも不要だと主張します。

ひろゆき氏は世界の大勢に合わせろという主張です。以前、安倍内閣は、成長戦略の一つとして、「二〇二三年までに、世界大学ランキングのトップ百に十校を入れる」という目標を打ち出したのですが、どうも達成できそうにありません。ひろゆき氏はこれを目して、「古典とか漢文とかの受験勉強をさせておいて『世界大学ランキングに十校を入れる』なんて無理でしょ」と言うのです。

 

しかし、大学ランキングに名前を連ねたからと言って、何が嬉しいのでしょう。日本の実力はすでに世界から認められています。発展途上国ではあるまいに、名前が出たからって、一喜一憂すべきものでしょうか。

日本は、ノーベル賞受賞者の数では、アジアでトップです。近年に絞ってみれば、世界でも有数の科学大国です。大学ランキングよりもこちらの方が学問の指標として宛てにできると思います。

 

ノーベル賞受賞者はたいていが国立大学出身ですから、入学試験の時には、古文漢文の勉強を余儀なくさせられたわけです。早慶を始めとする私立一流大学があまり理科系の実績を残していないのは、入試に古文漢文を課さないからだと言ったら暴論でしょうが、それでも、「古文漢文があるから日本人は世界の水準に達することができない」というほどの暴論ではなさそうです。

 

百田氏は、「漢文を教えると中国を偉大な国だと思ってしまう」と言いますが、漢文は、中国の古典を日本式にアレンジしたものであり、日本の文化になり切っています。漢文教育がいけないのなら、日本文化そのものに疑義を抱かなければなりますまい。漢字も廃止してしまえということでしょうか。

漢字文化圏と言えば、日本・朝鮮韓国・ベトナムを指すのがふつうですが、漢字を残しているのは日本だけです。それをしも、日本が世界の大勢に付いて行けなかった証拠だという人がいます。

 

そうではありません。日本は地理的に中国から適度に離れていたために、漢文を受け入れても客観的に眺めることができ、自家薬籠中のものとして、消化することができました。だからこそ、これを棄てなければ独立できないなどという劣等感に陥ることなく、独自の文化として成長させることが可能になったのです。

中国語(漢文)は外国語なのだから、現代日本人が英語を学ぶように外国語として勉強すればよかったのに、という意見もあります。そういう人たちは、日本人だけが漢文訓読という途方もない読み方を発明して、学問の王道から逸れてしまったと誹謗します。

 

どうして、そんなに悪い方へ悪い方へと解釈するのですか。

漢字に訓読みを付けたのは日本だけです。世界にも例のない、特殊な言語学習法でしたが、手っ取り早く意味を取るには極めて合理的な方法でした。江戸時代には庶民までもが漢文を読むことができました。それは漢文訓読という方法が優れたものだったからです。

 

幕末から明治初期にかけて、日本人はたちまちに英語を習得しました。それも日常会話だけでなく、高度な論文を簡単に読みこなせる域に達しました。英米人が日本人の優秀さに驚いたのも故なきことではありません。

それもこれも、日本人にとって、英語は第二外国語だったので、外国語習得のマニュアルができていたからです。第一外国語って、オランダ語じゃありませんよ。中国語(漢文)だったのです。(オランダ語は一部の人を除いてはほとんど普及していませんでした)

漢文のおかげで、日本は世界の舞台に労なくして乗り出すことができたのです。

 

百田氏にとっては面白くないかも知れませんが、中国は日本にとって、ギリシアであり、ローマであったのです。私は政治的には反中の立場に立っているとはっきり申します。習近平の悪口もずいぶん言いましたから、中国が侵攻して来たら、外国へでも逃げなければ、拷問で廃人にされてしまいます。(実は影響力がないから相手にしてもらえないでしょうが)。

 

それでも、だからと言って、日本が古代中国から受けた恩恵を忘れてしまっていいものでしょうか。いや、現代の中国政府に感謝しろと言っているのではありません。

ヨーロッパ人がギリシア・ローマの恩恵を受けているからと言って、現代のギリシアやイタリアを尊敬しなければいけないという理窟にはなりません。それと同じです。

 

そもそも、百田氏が嘆いているような、「日本人が中国を偉大な国だと思ってしまっている」という事実は存在しないように私は思います。多少それがあるとすれば、リベラルが中国をほめたたえるからです。マスコミに躍らされて媚中になっているだけで、古典文学がそのために貢献しているとは思えないのです。

それが証拠に、あんなに漢文が盛んだった戦前の日本人は、中国を侮蔑していたと今になって非難されているではありませんか。だからこそ、語源的には何も蔑称ではない「支那」という言葉を使うなと中国人は怒り狂うのです。漢文は中国を尊敬するタネにはなっていません。

 

数年前に韓国の新聞が、「なぜアジアで日本人だけがノーベル賞を取るのか」という特集を組んだことがありました。その結論は、「日本では、大学で日本語で授業するから」だったそうです。

アジア各国の中で、大学の授業を母語で行うことができるのは、日本と中国だけなのです。他の国々では、母語が学問に適した言語にまで成長していないので、学問は英語に頼るしかないのです。

複雑な論理を組み立てるには、母語を使わなければなりません。よほどの語学の達人でなければ、外国語で論理を追求して行くことはできないのです。アジア各国が理系のノーベル賞を取ることができないのは、母語を使えないので、思考過程が甘くなってしまうからです。

 

平成二十年(二〇〇八)にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、翌年ストックフォルムで行われた授賞式の講演を「I’m sorry. I can’t speak English.」と言い出して、好意的な笑いを誘った後、日本語で通したそうです。こういう人、私は日本の誇りだと思うのですが、英語かぶれの人たちは、日本の恥だと言うのです。「英語がなんぼのものじゃ」となぜ思えないのですか。

益川氏のこと、ちょっと褒め過ぎました。実はこの方、残念なことに、政治的にはリベラルなんですよね。「九条を守れ」とおっしゃっているので、ついて行けないのですが。

 

日本人が日本語で学問をすることができるのは誇るべきことなのに、日本人自身が「それではいけない」というのです。自縄自縛とはこのことです。自ら誇りを棄てて、動きが取れなくなっているのです。

かつて文部大臣が「日本の大学で、全講座を英語で講義している所が一つもないのは恥ずかしい限りだ」と言ったことがありました。

「全部の講座」とは何でしょう。源氏物語も英語でやれという意味なのでしょうか。政治家って、ウケるためには、どんな無責任なことでも言うのですね。特にトレンディなことを。それとも、源氏物語など教える必要がないということでしょうか。

理系の学生にとっても、漢文・古文の学習は、教養の基礎になっています。百田氏もひろゆき氏も、理系ばかりでなく文系まで漢文をやめさせろと主張しているようですが、そんなことになったら、日本の文化はどこまで貧困なものになってしまうのでしょう。

 

日本語が論理的な言語に成長することができたのは、漢語を取り入れたからです。これによって、語彙が増え、造語力が強化されたために、難解な思想を表現することに難渋しないで済むようになったのです。

漢語が入って来なかったら、おそらく日本語はこんなに表現力豊かな言語にはなれなかったに違いありません。

それは恥じるべきことではないのです。英語だって、ギリシア・ローマの力を借りなかったならば、学問のできる言語には成長できなかったのだろうと思われます。

それと同じで、飛鳥時代以前の日本語が中国語と出会って、質的変貌を遂げ、グレードアップされたのです。

逆に世界の僻地で孤立していた言語が、論理的な言語に成長できなかった例は枚挙に遑ありません。言語は混淆〈こんこう〉することによって成長するのです。

 

そもそも、漢字が渡来して来る以前の日本語も、本当に独自のものだったというわけではありません。シベリア方面、ポリネシア、長江流域。そういう所から渡って来た人々がさまざまな言語を持ち寄って、それが混淆して日本語が成立したのです。世界中のたいていの言語はそうやって出来上がっているのですから、純粋な意味で、独自の言語というものは稀有の存在なのです。

ですから、五世紀六世紀以降、中国語の大きな影響を受けて日本語が変貌・進化して来たのは、世界の言語にごく普通の成立の態様でありました。

日本語が中国語の影響下に完成したのは、別段その従属性を意味しているわけではないのです。

 

韓国の知識人が「韓国人は漢字を廃止したために論理的思考能力を失ってしまった」と書いているのを読んだことがあります。

日本でも、終戦後しばらく、漢字を減らせという運動が盛んでした。当用漢字が制定されたのも、そういう短慮の慣れの果てだったのです。それは間違いだったということが分かったからこそ、当用漢字は常用漢字に代わり、「強制ではなく目安」ということになって、漢字制限が緩和されたのです。

漢字は要らないと思われていたのが、やはり必要だと分かってきたのです。そうしたら、漢文・古文の重要性も見直される日が来るかも知れません。

 

漢字の話ばかりしたので、百田氏やひろゆき氏の立場の人からは、「漢字を廃止しろと言っているのではなく、漢文(および古文)教育を廃止しろと言っているのだ」と反駁されそうですが、そうではないのです。漢字を基にした漢文・古文、どちらも文語と言っていいのですが、文語という伝統文化を背景にして、口語も成り立っているのです。

この背景を奪うことによって、日本語が堕落してしまうのを私は憂えているのです。発展途上国では、知的な内容は英語でしか話しません。母語は下層階級の日常語としてしか存在できなくなり、頽廃しています。

これは現在の中国の少数民族弾圧政策と軌を一にしています。チベット・新疆(ウイグル)、モンゴルで中国語を押し付けて、母語を教えなくなっています。学校では中国語、家庭内の会話は母語。中国政府は母語を頽廃させて、やがて消滅させようという魂胆です。あまり知られていないことですが、満洲語は今ではほぼ死語になっています。

 

小学校の英語教育必修化によって日本もそういう状況に近づいています。この上に、漢文・古文の教育を廃止したら、いよいよその傾向が強まるでしょう。そして、伝統文化から切断された日本語は、ハイブラウな言語ではなくなってしまうに違いありません。

一言で言えば、漢文古文教育を廃止してはいけないというのは、「国語に対する民族の誇り」を奪ってしまうからなのです。

 

百田氏は、漢文教育は廃止するが、古文は今のまま教えればよい、とお考えなのでしょうか。しかし、上述のように、漢文は国語の古典の中に取り込まれていますので、漢文なしでは、古文も不十分なものになってしまいます。漢文教育廃止というのは、日本の伝統文学を反故にしてしまえと言っていることになるのではないでしょうか。

 

私は戦後の文学者の中で、一番美しい日本語を書いたのは三島由紀夫だと思っています。そして、三島由紀夫の漢文・古文の素養は当代随一のものがありました。

言語の歴史に対する深い洞察力があってこそ、美しい現代語を書くことも可能になるのです。

夏目漱石も、漢文・古文の背景があったからこそ、美しい口語文を書くことができたのです。

 

百田氏・ひろゆき氏はさておき、一般に漢文・古文など勉強しても役に立たないという人が少なくありません。(リベラルに多いのですが)

しかし、役に立たないというのなら、一部の人を除いては、英語が一体何の役に立つのでしょうか。

英語を社内公用語にした企業も、そのせいで実績が上がったとはあまり聞きません。ユニクロの社長は、英語を公用語にしたおかげで、日本一の富豪になれたと言う人がいますが、そうではありますまい。富豪になれたのは、ウイグルの人たちの血を啜ったからでしょう。むしろ、中国語を公用語にした方がもっと儲かっていたのではありませんか。

 

高校生の時、特に大学受験に際しては、誰しも英語を一番たくさん勉強したでしょう。そして、大学入学以後は、一生英語を使うことがなかったというのが大半の人々の実感であろうと思われます。日本中で壮大な無駄が行われていたのです。英語を勉強しなくてすんでいたら、青春はどんなに楽しかったでしょう。なぜ文部省を相手に、「青春を返せ」と訴訟を起こす人がいないのか不思議でなりません。

本当の話、私は小学校はもちろん、中学高校でも英語の授業を廃止したらよいと思っています。入学試験からも外してください。その代わりに、言語教育としては、古文漢文をしっかり勉強させればいいじゃありませんか。

 

ドイツ語・フランス語の専門家の大半は、大学に入ってから勉強を始めて、ちゃんとした学者になれたのです。英語だって同じです。やりたい人だけが、大学に入ってから勉強すれば十分に間に合います。英語なんぞ必要のない人が国民の九〇%を占めているのに、何が悲しくて、全国民に強要するのですか。

 

数学なんぞはもっと役に立ちません。日教組のキャンペーンの一つに、「学習負担をふやすな」というスローガンがありました。「算数・数学なんぞは、買い物ができる程度でいい」と言った幹部もいました。暴論ですが、なるほど、考えればこれも一理あります。

数学は、論理的思考能力を鍛えるために必要なものだと言われます。なるほど、それは納得できるのですが、学問をしようというエリートを除いた一般の文系学生は、高校受験レベルの二次方程式・三角関数の初歩のあたりまで勉強すれば、その目的は達成されるのではないでしょうか。せいぜい高校の「数学Ⅰ」のレベルで十分でしょう。

英語・数学を勉強しても、一般の人には何の役にも立ちませんが、漢文・古文は、少なくとも、母語を豊かにするという点で、遙かに役に立つものです。

 

私が学生の頃、親類に早稲田の理工を出たリベラルのお兄さんがいました。その人が、ある日親類一同が集まった席で、「古文とか漢文とかあんなものを教えるから、子供が反動的になるんだ」と説教を垂れました。

馬鹿じゃないの、と惘(あき)れ果てましたが、当たっていないことはありませんよね。百田さん、古文漢文は中国崇拝に走るよりは、若者を保守化させるのに役立っているのですよ。

それにしても、漢文廃止論はリベラルの専売特許だと思っていたのに、百田氏が同じ意見を持っていたとはいささかショックでした。

 

今、心ある教育関係者は、大学入学共通テストから漢文が外されてしまうのではないかと心配しています。

すでに、個別(大学別)の入試では、国立も私立も、漢文を排除してしまっている所が非常に多いのです。共通テストが最後の砦です。

なんとかこれを守って欲しいものです。

日本文化の伝統を維持できるかどうかがかかっています。

百田氏のような頼もしい保守派に敢えてお願いする次第です。