「樋口季一郎」さんについて思った事。

以前に会報に樋口季一郎さんの事は書かせていただいた事はあるのですがオトポールで約2万人のユダヤの方々を助けた事しか書かなかったので、もう少し詳しく書きたいと思います。

1888年、樋口季一郎氏は淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄の奥賓家で5人兄弟の長男として誕生しました。家は代々、廻船問屋でしたが明治以降、蒸気船の普及のより時代の流れに取り残され、家は没落、両親は離婚、季一郎は母に引き取られます。

その後、樋口家の養子となり樋口姓になります。1909年陸軍士官学校に進む一方で東京外語学校でロシア語を学びます。陸軍士官学校を経て1919年ウラジオストクに赴任、満洲、ロシア(ソビエト連邦)部署を勤務。1924年公使在武官としてポーランドに赴任。やがて満洲のハルビンに赴任します。

そして樋口氏は第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害から逃れてきたユダヤ人達の事を、そのユダヤ人代表のアブラハム・カウツマン博士から相談を受け、樋口氏は直属の部下に医療、食料、衣料等々、配布させてから南満州総裁だった松岡洋右氏に直談判して了承をとり満鉄の特別列車で上海にユダヤの方々を脱出させました。(樋口ルートと呼ばれました)

しかし後にこの事が日独間の外交問題となり、ドイツの駐日大使オットーが強く抗議した為に東条英機中将(当時)に呼び出された樋口氏は「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることが正しいとは思いません!」と言うと東条氏は理解を示し「人道上の配慮で当然の事である」としてドイツからの再々の猛抗議も撥ね付け樋口氏を庇いました。

その後、戦場にて樋口氏の指揮下にあった陸軍部隊のうちアッツ島守備隊は玉砕してしまいましたがキスカ島撤退は成功しました。

日本の降伏直前のの1945年8月10日ソ連参戦が発生。北方軍を指揮していた樋口氏は停戦後の8月18日以降、占守島、南樺太におけるソ連侵攻軍への交戦を指揮し、これを成功させました。

その為に極東国際裁判に際し、スターリンは樋口氏を「戦犯」として指名しました。が、世界ユダヤ会議はいち早く、この動きを察知して世界中のユダヤ人コミュニティーを動かして世界的規模で、樋口救剤運動が展開され、結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡しを拒否、樋口氏の身柄を保護しました。

晩年は過去は語らずアッツ島の絵の前で毎朝、戦死者の人達の冥福を祈っておられたそうです。

同じくユダヤの方々を助けたとされる杉原千畝氏は有名なのに樋口季一郎氏の事があまり知られていないのは軍人ゆえか、東条英機氏が庇ったせいなのか?樋口氏がいなければ北海道も危なかったでしょう。一人の人間としても軍人としても本当に立派な方だったと思います。

もっともっと樋口季一郎さんの事が日本中に知られてほしいと心から強く願わずにはいられません。