高山正之氏の「日本よ!目醒めよう」をよみました。この本の中でパキスタンに技術指導に行った国鉄の京谷好泰氏(京谷氏はJRのリニア新幹線の生みの親として知られた方です)がパキスタン人の教え子の一人から自分の祖父の話を語りました。まだパキスタンが英国の植民地時代の時に研究熱心な祖父は英国製の機関車を整備する傍ら、仕組みを研究し、10年かかって本物の五分の1サイズの機関車を作り上げたそうです。それを英国人の前で走らせると英国人等は「よくやった」と褒めるどころか顔をしかめ、やがて機関車作りに関わった技術者を全て別件の罪名で処刑してしまったそうです。「植民地の民が白人様の技術や知恵を身につけることは大罪である」「植民地の民は愚鈍でいることを強いられた」と。
この話から、もし日本が幕末に欧米諸国の植民地にされていたら日本の技術はどうなっていたのかなと考えてしまいました。そして、ふと、幕末に宇和島藩で黒船と同じ蒸気船を造った名もない一人の職人の事を思い出しました。
私の亡き主人は司馬遼太郎さんの歴史小説の大フアンで、特に幕末の話の話が好きだったので私も自然と一緒に読むようになり私も幕末の歴史が好きになりました。その中での短編小説で「酔って候」があり、今でも殆ど知られていない宇和島藩に住む裏長屋の貧しい提灯張り職人の裏長屋の苗字もない「嘉蔵」という男性が主人公なのですが。私はこの人の話が大好きで何度も読み返してしまいました。この嘉蔵は生き方が不器用でぼろぼろの家に住み、あまりの貧しさに妻にも逃げられ様な男でしたが手先は超器用で何でも器用に作ってしまう「神の手」を持ってました。でも生き方の下手さでい同じく貧しい裏長屋の近所の人達にも馬鹿にされていました。でも、そんな嘉蔵に同じく宇和島藩に住む宇和島藩の豪商、清家市左衛門だけが「いやあ、嘉蔵は面白い」と言って何故か嘉蔵を気に入りJ話し相手になってくれていました。ある日、その豪商から「嘉蔵、今度、藩主の伊達宗城様が黒船をこの宇和島藩で造りたいとの仰せだ。それで家老様から誰かいい職人はいないか?」と家老様から聞かれたので「嘉蔵、お前を推薦しておいたぞ。」と言われて嘉蔵は仰天します。そして、とてつもない大役に苦悩し不安に押しつぶれそうになりますが、ふと、「黒船は自走する」と以前に聞いたことを思い出し舟の網曳きのロクロを細工して回転させるカラクリを作り上げ、それを豪商に渡し豪商から役人、家老に渡り最後にうやうやしく藩主に渡り藩主は驚き感心しそして大いに喜び蒸気船造りは嘉蔵に決まりました。嘉蔵は武士でも最下位ながらも「士分」に取り立てられ藩の方針で長崎に勉強しに行き(この時にお目付け役として一緒に行かされた武士に散々と虐められます。)長崎から宇和島へ帰国してから蒸気船造りに着手しますが、船としてはあまり進まず失敗しましたが今度は島津斉彬の側近、肥後七左衛門に学び再び宇和島に帰国して再度、蒸気船造りに挑戦します。そして造った蒸気船の試運転に藩主、伊達宗城を乗船させ航行し大成功します。
私はこういう「人生一発逆転ホームラン」のような話が大好きなのです、が、もしこの時に日本が何処か白人国の植民地になっていたら、どうなっていたか…。おそらくパキスタンの技術者達のように嘉蔵は言わずもがな蒸気船造りを指示した藩主、家老、豪商、関係者全員が「植民地の民のくせに白人様の技術を身につけるな!」ということで処刑されてしまったかもしれませんね。パキスタンの技術者達と同じ運命を辿った気がします。のちの日本の技術発展の為にも植民地にならなくて本当に良かったです。頑張ってくれた幕末に活躍してくれた素晴らしき先人たちに感謝です。
白人国の植民地政策はその国から搾取するだけ搾取してその国の民を奴隷の様に扱い知恵がつくのを嫌い、まさに愚民化政でした。それに比べて日本の朝鮮、台湾等々でやった政策は白人国の統治政策とはまるで逆でしたね。むしろ日本からの持ち出しが多く日本人のほうが負担になって苦しんでしまったように思えます。
そして後に日本が植民地にならず欧米諸国と同等の力をつけ先の戦争で戦った事が白人国の植民地になっていたアジア、アフリカ、中東の国々に勇気を与え植民地からの独立に繋がっていったのですから、もし日本って国がこの地球上になかったら植民地になっていた国々は多分、今でも独立出来なく植民地のままだったと思います。
先の戦争の敗戦後、すっかり自信を失ってしまった日本ですが、真の歴史を知れば日本は世界中の有色人国々が植民地になっていく中で頑張って守り抜き欧米諸国に追い付け追い越しで頑張りそして世界中の植民地になっていた国々を独立に導いた英雄国である事がわかるでしょう。
日本人よ本当に目醒ましょう‼(葉)