西尾幹二氏が、2018年12月13日に産経新聞「正論」に寄稿された「『移民国家宣言』に呆然とする」の中から、現在にも通じる指摘、分析を挙げていく(括弧内)。
「外国人は自分の欲望に忠実で、先進国に入ってくるや否や徹底的にそれを利用し、そこで出世し、成功を収めようとする。何代かけてもである。当然、日本人社会とぶつかるが、そのために徒党を組むので、外国人同士-例えば中国人とベトナム人との間-の争いが、日本社会に別の新たな民族問題を引き起こす。その争いに日本の警察は恐らく無力である。」
日本の政治家や政府は「多文化共生」と耳に心地よいことを言うだけで、相手(移民側)の論理を想定していない。大変無責任である。川口市で増える中国人は日本語を覚えようとせず、子供を公立学校に入れるが、子供もまた日本語を覚えないので授業が成り立たないと聞いた(川口市の知人より)。目下問題のクルド人は集団である地域に住み、騒いだりゴミ出しのルールを守らないので、元から居る日本人住民は肩身の狭い思いをしていると聞く。
「日本国民は被害者でありながら、国際的には一貫して加害者に位置づけられ、自由に自己弁明できない。一般に移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが一番厄介な点で、すでにして日本のマスメディアの独特な「沈黙」は始まっている」
現在もなおマスコミは日本人にとって一番伝えてほしいことを伝えていない。現地の日本人は孤独な闘いを続けている。
「日本は「和」を尊ぶ国柄で、宗教的寛容を古代から受け継いでいるから多民族との「共生社会」を形成することは容易である、というようなことを言い出した。今回の改正案に党内が賛成している背景とは、こうした大ざっぱな文化楽天論が共有されているせいではないかと私は考える。
しかし歴史の現実からは、そういうことは言えない。日本文化は確かに寛容だが、何でも受け入れるふりをして、結果的に入れないものはまったく入れないという外光遮断型でもある。対決型の異文明に出合うと凹型に反応し、一見受け入れたかにみえるが、相手を括弧にくくって、国内に囲い込んで置き去りにしていくだけである」
西尾氏の鋭い日本人分析である。日本人は受け入れがたいものは静かに退けるのである。しかし移民の数が増えて幅を利かせるようになってくれば、そうもしていられない。
「『多民族共生社会』や『多文化社会』は世界でも実現したためしのない空論で、元からあった各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を引き起こす。日本は少数外国人の固有文化を尊重せよ、と早くも言われ出しているが、彼らが日本文化を拒否していることにはどう手を打ったらよいというのか。」
「寛容と和の民族性は内ぶところに硬い異物が入れられると弱いのである。世界には繫栄した民族が政策の間違いで消滅した例は無数にある。それが歴史の興亡である」
西尾幹二氏の洞察を多くの人に知ってもらいたいと願う。国が滅んでしまってからでは遅いのである。(和)