③なぜ宣教師は宣伝したか
19世紀から中国に来て布教していたプロテスタント宣教師たちだったが、なかなかうまくいっていなかった。昭和5(1930)年、蒋介石がプロテスタントに改宗すると宣教師たちの期待が高まる。昭和11年12月に西安事件が起こり蒋介石は危うく殺されそうになるが監禁を逃れて南京に戻ってくる。蒋介石はこの2週間の監禁の間にキリストの愛を感じ、助かったと昭和12年3月に告白した。これを聞いた宣教師と中国のプロテスタントは大喜びした。蒋介石の「新生活運動」(町にゴミを捨てたり痰を吐いたりする習慣を止めるという運動)を全国基督教連盟は全面的に支援し、ひいては蒋介石を支援することを決めた。
昭和12年日本が南京に進軍してくる。南京の宣教師たちは中国軍の手助けを決議したのである。
④東京裁判の実態
武藤章中将は南京攻略戦で松井石根(まつい・いわね)大将の下で参謀副長官だった。昭和20(1945)年、武藤中将は被告にされ尋問を受けたがこの調書が残っている。検察官の質問「是等の事件は数千、数百の事例を挙げて報告されたか、それとも如何なる数字が挙げられていたか」に対し、武藤中将は「十乃至二十の事件が報告されていました」と答えている。日本軍は12月13日に南京陥落、17日の入城式後、松井大将は塚田攻参謀長から報告を受ける。その中に「南京入城以来十ないし二十の窃盗、殺人、殴打、強姦が起きた」という報告があった。武藤参謀副長官もその報告を側で聞いておりその証言をした。しかし検察官は「実際は数千にのぼっていることを承知しているはずである」と畳み掛ける。しかし武藤中将は「そのように多くの事件があったとは想像できません」と答えている。
しかし起訴状においては「日本軍は南京を攻略し、数万の一般人を鏖殺(おうさつ=皆殺しにすること)」である。これは根拠があるわけではない。宣教師が喋って記事に書かれたことである。
一方、宣教師の証言もある。ベイツとマギーは法廷で6~7時間もかけて証言している。二人とも、殺人がおきた、強姦があった、略奪が沢山あった、南京は火の海だったと延々証言する。その後で弁護人がマギーに質問する。「お話になった不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯をあなた自身いくらくらいご覧になりましたか」それに対しマギーは「ただわずか一人の事件だけは自分で目撃しました」と答えている。強姦も1件、強盗についても「アイスボックスを盗んでおったのを見た」だけである。
しかし東京裁判での判決は「二十万人の殺害」なのである。
