2.南京事件はどのように認識されてきたか
昭和20(1945)年11月、GHQの民間情報教育局は日本の新聞社に対して「太平洋戦争史」の掲載を命じた。いわゆるWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)である。12月8日発行の支那事変の章には「日本軍は恐る可き悪逆行為~近代史最大の虐殺事件~このとき実に二万人からの男女、子供達が殺戮された」と掲載されたのである。12月23日にはラジオ「真相はこうだ」が南京事件を取り上げた。
昭和23(1948)年11月に東京裁判の判決が出る。「占領してから最初の六週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は二十万以上であった」日本人はこの判決を聞き、南京事件は本当にあったのだと認識することになるのである。
昭和30(1955)年に出版された『昭和史』。これを書いたのは遠山茂樹、今井清、藤原彰というマルクス主義歴史研究家である。その本の脚注には「南京事件は4万2千人以上の殺害」と記述されてきた(左翼歴史家でも東京裁判の20万人殺害は認めていない)。
昭和27(1952)年の日本の独立以降、「南京事件」は日本の教科書には書かれなくなっていた。ところが昭和46(1971)年、朝日新聞が本多勝一(ほんだ・かついち)の「中国の旅」を連載するとまた南京事件が話題に上がる。本になると、これを学校の教材で使う先生も現れた。そのころは昭和46年に高校教科書の一誌、昭和50(1975)年には中学校教科書の一誌が取り上げたくらいにとどまっていた。
しかし先述したように昭和57年に政府が取り上げるようになるのである。
