「南京大虐殺は本当にあったのか?」講演録③

3.真実は何か

①事件の発端

昭和12(1937)年12月13日、日本軍は南京城に入る。殆ど戦闘はなく、占領したと発表する。このとき南京城内にはアメリカ、イギリスの記者が6名残って南京の最後を記事にしようとしていた。ところが南京には通信手段がなくなっていた。記者達は15日、通信手段のある上海に行くことにする。そのときベイツという宣教師が記者達にメモを渡した。そこには「市内を見回った外国人はこのとき通りに市民の死体が多数ころがっていたと報告しています」と書かれていた。

当時南京には12~13人のプロテスタント宣教師達がいた。スマイス、フォースター、フィッチらである。彼らは南京安全区を車で回っているが死体など見ていない(宣教師が家族へ送っている手紙や日記を見ても明らか)。死体が転がっている事実などないことは宣教師も記者もよく知っていた。

しかしベイツのメモを受け「ザ・タイムズ」(マグドナルド記者)は「通りにも死骸が転がっており」と書き、「ニューヨーク・タイムズ」(ダーディン記者)は「いずれの通りにも民間人の死体を目にした」と書いたのである。

②事件の拡大

それだけに留まらない。昭和13(1938)年1月、ベイツは上海にいる宣教師に手紙を書いた。「一万人以上の南京市民が殺された」と。上海にはアメリカ人、イギリス人だけでも1万人いた。その人々に向けた「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」がある。そこにベイツの手紙が載った。こうしてどんどん広まっていくのである。

当時上海には記者が沢山おり(70~80人)、その中にきわめて中国寄りの記事を書く人物がいた。「マンチェスター・ガーディアン」紙の記者、ティンパーリーである。国民党中央宣伝部の協力要請にティンパーリーはすぐ承諾した。ティンパーリーは南京にいるベイツを手紙でやりとりし昭和13年7月には『戦争とは』を刊行した。これは世界中で発行された。

昭和16(1941)年にはエドガー・スノーの『アジアの戦争』が刊行され、アメリカで読まれた。この本は宣教師が話したことをさらに膨らませて書いたものだった。「日本軍は南京だけで少なくとも四万二千人を虐殺した」と記述されている。