わが国で餓死なんてあっていいのか!

「百人の会」の増木氏が「我が国で餓死なんてあっていいのか」と憤っておられます。

最近のニュースでこの手の悲しいを聞くたびに耳を覆いたくなります。

増木氏は教育界で権利ばかりを教えてきたことの結果だ。もっと「義務」、「責任」を教えるべきだと言われます(仁)。

 


《我が国で「餓死」なんてあっていいのか
            事務局 増木重夫

 下記の新聞記事を見ていただきた い。結局女の子は『餓死』したといu
ことでしょ。昭和が終わって平成も終わった。こんなことがあっていいの。
原因は、だれも言わないから私がはっきり言うが、母親の色ボケ。若い彼氏
に最初はのぼせ上がり、籍を入れ、ヤバイと思ったがズルズル。最後はその
暴力から、わが子を守るという正常な理性、気力が消え失せてしまった。そ
して、それを許したのが、『自分らしく生きる』、という「自分勝手」を許す戦
後の民主主義。
自分の人権(母親)と相手(子供)の人権とどちらが優先か。それを教えなかった
母親が通った、小中学校の日教組であったであろう教員。日教組が作った学校や
世間の空気。結愛ちゃんはその犠牲者だ。
  さらに言うなら、家庭子どもセンタ ーの職員。もう一歩踏み込む勇気
がなかったのか。彼らはルールに従って救済活動をしたのだろう。しかし、
「子供の命を守る」ことと、「規則を守る」こととどっちが大事だ。本末転倒ではないか。
事故が起きると、「規則を守った」と言う。それが死人が出たことの免罪にならない。
今日TVで、「プロの職員が必要。」と言っていたが、プロって何だ? 資格があることか。
緊急の時、規則通りにやるか別の方法を講じるかの判断ができるのがプロではないのか。
やりきれない。
 とにもかくにも『人権』ではない。『義務』だ。社会人になったら社会人の『義務』、
親になったら親の『義務』。教育の第1義は『義務』を教えること。TVを見る限り、
この父親、生まれてこの方、「義務」とか「責任」などと言う言葉、聞いたことがない
のではなかろうか。
 この種の事件を減らすには、学校で徹底的に『義務』を教えるしかないと思う。 
小学校で自転車の乗り方を教えているようだ。その際、「人を跳ねない」ことと、
「自分がはねられないこと、自分の身を守ること」どちらに重きを置いているだろうか。
後者のような気がする。逆ではないか。まず相手にけがをさせない。車の教習所では、
かなり相手を守る指導がなされているようだが。将来ハンドルを持ったら歩行者を守る
『義務』が生じる。当たり前のことだ。社会、学校、家庭、行政、あらゆるところで
『権利』に占領された悪癖を『義務・責任』に修復させないといけない。
我々教育に携わる者の使命。それは結愛ちゃんのような事件が起きてから言い訳を
考えることではなく、このような悲惨なことが絶対ないように、
必死に必死に考えることだと思う。
 今から、我が家の愛犬にお説教。「餌を残すな。飢えてる子供もいるんだ」と。

目黒女児虐待死、「凄惨だった」 消防隊員が公判で証言

9/3(火)        共同通信

東京都目黒区の船戸結愛ちゃん=当時(5)=が両親から虐待を受けて死
亡したとされる事件で、保護責任者遺棄致死罪に問わ
れた母親優里被告(27)の初公判は3日午後も東京地
裁で続いた。
結愛ちゃんが亡くなった日、父親雄大被告(34)=同罪などで起
訴=の通報で自宅に駆け付けた消防隊員が「あばら骨
が浮くくらいやせていた。凄惨な事案だった」と証言
した。証言によると、自宅に着くと、優里被告が結愛ちゃ
んの心臓マッサージをしていた。結愛ちゃんの背中には複数の傷があり、
顔は土色に変色。「数日食べていないだけで、あのようなやせ方には
ならないだろうと思った」と振り返った。》