このところ自由社の歴史教科書の不合格に関するブログ掲載が続いている。文科省が自由社の教科書にとくに厳しい注文をつけているようにみえる。
そもそも近年の歴史教科書に国家観が抜け落ちている気がしてならない。国のために尽くす、自分を育んでくれた国土に感謝する、国の伝統や文化を大切に思うことが、何か危険思想のように扱われていないだろうか。
本当は、自国を大切に思い、国のために尽くそうという気持ちは、他(国)の人もまたそうであろうと想像し、他(国)の地に合わせた形で引き上げようという気持ちにも繋がるのである。
1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾を割譲された。日本の領土となったものの、不衛生で病気ははびこり、難治の地と言われた。
日本はこの地のインフラ整備をし、十分な食料が供給され、また教育も受けられるようにした。つまり文明文化水準を引き上げたのだった。
ここで二人の日本人を紹介したい。台湾に高収量品種「蓬莱米(ほうらいまい)」を誕生させた磯永吉(いそ・えいきち)と末永仁(すえなが・めぐむ)だ。
日清戦争前後の日本は、産業革命といってよい時期に入り、農村から都市に労働力が移り食糧不足が深刻な問題になっていた。
その解決策として台湾で米を増産して内地に送ろうということになった。また台湾で増産されれば現地の人々も十分に摂取でき、余剰分を輸出できる。台湾の経済発展にも繋がる、というわけである。
磯永吉は明治45(1912)年に台湾総督府の技手(ぎて)として台湾に渡った。その磯より2年早く台湾に渡り稲の品種改良に打ち込んでいたのが末永仁だ。
当時、台湾の総督府は在来種のインディカ米の品種改良を対象としていた。しかしそれには限界があり、内地種(ジャポニカ米)を改良して台湾の地に根付かせる必要があると、末永は研究を続けていた。磯が台中農事試験場に移った際、共同研究者としてこの末永を呼び寄せたのである。
ここから2人の品種改良の試行が始まる。人工交配という気の長い作業、その品種が台湾の土壌と気象条件に合うかと実験農場での試行錯誤。
そしてようやく「若苗挿植(わかなえそうしょく)」によって増産にこぎつけた(挿植は田植えのこと)。大正15(1926)年、この新品種に「蓬莱米(ほうらいまい)」という名がつけられたのである。
その後も品種改良を重ね「台中六十五号」が創られた(現在、蓬莱米といえば、この「台中六十五号」という品種を指す)。その後、蓬莱米は杉山龍丸の手によりインドへと伝えられることになる。
磯も末永も国の命により台湾に渡ったのだが、人生の大半をその地で研究に費やした。その人生に悔いはなかったであろう。自国を思い、他の地に正に根付いて尽くした人物が存在した。こうした日本人は沢山いたのである。(和)