日本のおかげ、日本よ目を覚ませ!
元韓国空軍大佐・崔三然(さい さんぜん)さんが、令和2年9月25日に逝去されました。92歳でした。先の大戦では日本軍人として戦い、戦後も日韓を行き来して両国の近現代史と共に歩み抜いた崔さん。生涯一貫して「反日はなかった」と訴え続けた歴史の生き証人のお話には、戦中・戦後の実体験に基づく世界の安定、平和への祈りが込められています。
インタビューでは、真摯に答弁され日清戦争、日露戦争なども肯定的にとらえているのが印象的です。ご冥福をお祈りいたします。(生)
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*「以下インタビュー」-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
日本は決して悪いことをしていない
――いまの日本では、歴史の真実が十分認識されていないように見受けられます。
〈崔〉
まず、日本という国がいかに重要かということを理解していただきたいですね。極東の歴史を見れば、日本があるがためにいまの韓国があり、東南アジアが栄え、東洋がそれなりに繁栄を続けてこられたことは明らかです。
もし日本が日清戦争をしなかったら、日露戦争、満洲事変、大東亜戦争をしなかったら、中国も北朝鮮も韓国も東南アジアも、全部かつてのアフリカのように白人支配の植民地になっていますよ。日本のおかげでいまのように平等な世界秩序が保たれていることを理解してほしいのです。
アメリカは自由民主主義の世界秩序を守る役割を果たしましたが、日本はもっと次元の高い、平等な人類の秩序を守るために貢献をした。これはもう厳然たる事実です。あいにく日本は大東亜戦争に敗れたことで、韓国との間にいろんないざこざを抱えてしまっている。
韓国が自分の領土だと主張している竹島は、サンフランシスコ平和条約で日本の領土として認められたはずです。慰安婦問題については、アメリカ軍も第二次世界大戦中にヨーロッパで同じようなことをやっていたし、朝鮮戦争の時もアメリカ軍の駐屯地一帯は一大慰安婦村になっていましたよ(笑)。
韓国では慰安婦のことをパンパンガールというんですが、当時3,000名のアメリカ軍に対してパンパンガール3,000名。それだけの人数の衛生管理をどこがやるのかというと地元の自治体です。これは要するに国家管理ということでしょ。日本ばかり責められるけれども、どこも同じことをやってるんですよ。
とにかく戦争と性の問題というのは大変難しいもので、何とか対策を講じないと大変なことになるんです。その点、日本は立派に管理をしていました。世界でそういう国はありませんよ。日本は決して悪いことをしていない。逆に褒めるべきだと私は主張するんです。
いろいろ賠償を求められていますが、日本が責められるいわれはありません。1965年の日韓国交正常化で、韓国は日本から3億ドルをもらい、日本は半島統治時代に築いた工場など、様々な施設を含めてトータル約51億ドルもの財産を残して撤退しました。韓国は日本からもらった財産をもとに経済復興を果たしたんです。
さらに1970年代、80年代には日本から山のように観光客が押し寄せて、韓国は観光収入がパーッと伸びたんです。
その頃に反日はあった�か? 靖國問題や慰安婦問題、竹島問題、徴用工問題はどうだったか? 一切持ち上がることはありませんでした。捏造された反日というのは、20年間全くなかった。その生き証人が私なんです。
兄弟のように交流した日韓の同窓生
――崔さんが戦前、日本陸軍に入られた時のことをお話しください。
〈崔〉
私が東京・立川の陸軍少年飛行学校に入ったのは昭和18年9月、15歳の時でした。その頃の日本は、アッツ島が玉砕し、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死して、戦況はかなり傾き始めていました。消耗の激�しい航空戦力を補うために、それまで1,000人くらい募集していた生徒を、2,000人、3,000人と募集し始めていました。
私は朝鮮の漢江(カンコウ)という当時東洋一の工業地帯に生まれ育ち、地元の中学で勉強し、東京陸軍少年飛行学校に合格して入隊しました。生徒は日本人と朝鮮人が半数ずつで、私の地元からは、1つ上の先輩と私の2人が初めて合格したものだから、皆大喜びでお祝いをしてくれました。
私はそこで正規のコースに入ったんですが、先輩は促成科に入って私より6か月早く戦地へ向かい、昭和20年4月に沖縄の特攻で戦死しました。立派な男でした。もし私が先輩と同じ促成科に入っていたら、いまここでお話しすることもできなかったでしょう。
――当時は朝鮮の人が差別されたという話を聞きますが。
〈崔〉
そんなことはありませんでした。その証拠に、朝鮮半島から来た私が選ばれて、日本人の後輩の指導を任されたんですよ。私が17期で、6か月後には18期の後輩が入って来て、五個中隊に45名ずつの区隊に分けられたんですが、そ�の一区隊45名に2か月付き添って指導せよと。
自分も勉強しながら後輩たちと寝食を共にして指導するので、よっぽど優秀じゃないと選ばれない(笑)。私は後の朝鮮戦争でたくさん勲章をもらいましたが、日本の飛行学校で後輩の指導を仰せつかったことを一番の栄誉と思っています。
戦後も日韓同窓会というのがあって、当時の仲間と日本と韓国を行き来して旧交を温めました。それ以外にも、私は仕事で何度も来日していたので、日本の同期生には随分お世話になりました。東京はもちろん和歌山や福岡、大阪、広島、京都、福井、秋田、磐城と、いろんな所へ何度も行きました。
――もし差別があったら、そうした交流はなかったでしょうね。
〈崔〉
差別どころか、我われは兄弟ですよ、一寸(肉親)です。残念ながら、共�産主義者によってそうした歴史の事実がねじ曲げられて、いまの人に伝わっていないんです。
〔中略〕
――(終戦を迎えて)どんなお気持ちでしたか。
〈崔〉
私たち朝鮮半島の者は「国に帰って半島の再建に努力してほしい」と言われて、先に帰されました。他の仲間は「独立万歳!」と大喜びでしたが、私は「これから朝鮮半島は大変だぞ」と一人違う方向を見ていました。
――実際、朝鮮戦争という試練に遭われましたね。
〈崔〉
あの戦争は、日本のおかげで無事終わったんです。アメリカが50万人もの兵力を投入して半島の赤化統一を防いだのですが、日本の後方支援がなかったら、いくらアメリカといえども負け戦でした。この歴史的事実をどこも取り上げないんです。
韓国にとって日本は恩人様々です。なのにどこまでも反日的態度を改めない。同じ韓国人として恥ずかしい限りですよ。歴史の真実に向き合わなければ、いつまでもその恥を拭い去ることはできません。だから私は語り続けるんです。
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【本記事は『致知』2020年4月号 特集「命ある限り歩き続ける」より一部「日本よ、目を覚ませ」より抜粋】
◇崔 三然(さい・さんぜん)
1928年生まれ。1943年日本陸軍少年飛行兵として大東亜戦争を戦う。終戦後、韓国へ戻り、大学で英文学、大学院で行政学などを専攻。朝鮮戦争に空軍将校として従軍。1971年大佐で退役。退役後は経済界の要職を歴任し、韓国工業基盤の発展に尽力。退職後は、日韓両国に跨る民間交流、執筆、講演に取り組んでいる。韓国空軍士官学校名誉教授。令和2年逝去。