藤岡信勝先生講演録「事件史でたどる歴史教科書問題~検定と採択の過去・現在・未来~」②

第2部「つくる会」教科書の検定と採択をめぐる事件 1990年代~2020年代

1991年12月に金学順ら韓国の元慰安婦が日本政府による謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴し、脚光を浴びます(実際金学順は父親に遊郭に売られて慰安婦になったのであり日本軍による強制連行はなかった)。ところが1993年8月6日、河野洋平官房長官が何の裏付けも得られなかったにもかかわらず、慰安婦の強制連行を認める談話を発表。この影響で1996年6月27日には中学校の歴史教科書全社に「従軍慰安婦の強制連行」が書かれていることが判明しました。

そうした中で、中学校の新しい歴史教科書をつくろうとする民間の動きが現れ、1996年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」を結成するという記者会見が行われ、翌年1月に設立総会を開き正式に発足しました。

2000年4月「つくる会」の教科書(中学校の歴史と公民)が文部省に検定申請されました。早くも7月の末から検定期間中であるにもかかわらず、朝日新聞や毎日新聞は門外不出の白表紙本の中身を批判する報道を始めました。「つくる会」の教科書が世に出てから20数年になりますが、常に検定や採択における妨害反対運動に晒されてきたといえましょう。その経過を「つくる会の危機」として第1~第3の危機として解説していきます。

●つくる会 第1の危機 平成12年(2000年)~平成13年(2001年)

野田英二郎事件(外務省による検定不合格工作・2000年)、共産党白表紙本流出事件(2000年)、栃木県下都賀事件(2001年)があります。

「野田英二郎事件」とは、元外交官で教科用図書検定調査審議会の審議委員の一人だった野田英二郎が、「つくる会」の教科書を不合格にするよう他の委員に圧力をかけた事件です。

野田はどこからか「つくる会」教科書を潰すミッションを与えられ、他の委員に電話をかけたり手紙を書いたりして「不合格にするよう」派手な工作をしたため外部に漏れ、産経新聞は10月13日にこの事実を報道しました。それにより文部省は「つくる会」教科書を不合格にすることはできず、2001年3月に合格、4月に文部科学省(この年の1月から文部省から文部科学省に名称変更)検定合格を発表。まさに首の皮一枚で不合格にならずに済んだのです。

「共産党白表紙本流出事件」とは、検定中で門外不出であるはずの白表紙本が、共産党議員の事務所に付箋が付けられた状態で置いてあったという事件です。

不正に入手した白表紙本で情報を得て、共産党の議員が本を書いているという(吉岡吉典・参議院議員「日本の侵略と『歴史教科書』」)事件がありました。

「栃木県下都賀事件」とは栃木県の下都賀採択地区(小山市を中心に2市8町で構成された教科書採択地区)で2001年に採択反対運動によって採択結果が覆ってしまった事件です。

下都賀採択地区ではつくる会の教科書『新しい歴史教科書』の採択が内定していましたが、朝日新聞、毎日新聞に内通する者がいて、内定をすっぱ抜く報道をしました。『新しい歴史教科書』に反対する勢力は一斉に反対運動を開始、下都賀地区の10の教育委員会に合計2万通もの反対電話、FAXが押し寄せ業務に支障が生じ、ある教育委員長には脅迫電話がかかってきました。こうした外部からの圧力により採択協議会の決定が教育委員会によって否決されてしまったのです。