藤岡信勝先生講演録「事件史でたどる歴史教科書問題~検定と採択の過去・現在・未来~」①

子供たちに良い教育をしてゆくことは親世代の重要な責務です。我々の先人が紡いできた歴史・伝統、そして命を捧げてこの国を守ってくれた先人の足跡を正しく知ることは子供たちが自国に誇りを持つために欠かせないものなのです。今その歴史教育が危機に瀕しています。

昨年11月5日、歴史教育の改革に長年に亘り携わってこられた藤岡信勝先生(「新しい歴史教科書をつくる会」副会長)をお招きして、事件史を辿る形で歴史教科書問題についてご講演いただきました。我が国の歴史に対する愛情を育てるためにつくられた歴史教科書であるにもかかわらず、なぜ検定によって妨害されるのでしょうか。第1部(教科書検定の機能の逆転)、第2部(「つくる会」教科書の検定と採択をめぐる事件)、藤岡先生の提案する検定改革プラン、新たなる問題について数回にわたり掲載していきます。

第1部 教科書検定の機能の逆転 1970年代~1980年代

教科書検定制度の役割とは、教育の機会均等を保障し、教育基本法が定めた教育目標の達成を目指し、教科書の質を維持するための制度です。歴史教育では「我が国の歴史に対する愛情」を育て深めるなどの学習指導要領の目標を実現することが目的となります。ところが現行の検定制度とその運用は、その目的を達成するものになっていないばかりか、その妨害要因に転化しています。その歩みを辿ってみましょう。

●1970年 家永訴訟杉本判決

家永三郎氏が執筆した高校日本史教科書『新日本史』は300点以上の意見がついて不合格となりました。この教科書は歴史事項の取り上げ方が偏っていて不適切と指摘され、とくに戦後の歴史については共産党が主張しているような内容になっています。

家永氏はこの検定により「精神的苦痛」を受けた、教科書検定制度は憲法違反であると主張し国を提訴しました。

1970年の東京地裁・杉本判決は、教科書検定制度は違憲ではないとしながら、「教科書の記述内容の当否に及ぶ検定」(当否に及ぶ=歴史観に当たるようなもの)は憲法が禁じる検閲に当たるとして原告の主張を認める判決を下しました。

これは最終審(最高裁)の確定判決ではありませんが、検定作業の現場に多大な影響を及ぼし、教科書検定制度が機能不全に陥る出発点となりました。当時は日中国交回復に向かっており、朝日新聞記者の本多勝一が『中国の旅』というルポルタージュを書き、事実の裏付けのない「南京事件」「南京大虐殺」が日本の教科書に書かれるようにもなったのです。

●1982年 「侵略・進出」誤報事件

実教出版の高校歴史教科書の白表紙本(検定前の申請図書・非公開)の記述について「『侵略』と書いたものが教科書検定で『進出』と書換えさせられた」と新聞で一斉報道されました(1982年6月26日付)。しかしこうした事実はないことが判明。訂正記事を掲載したのは産経新聞のみでした。

それにもかかわらず、宮沢喜一官房長官(当時)は謝罪談話を発表、「必ず政府の責任をもって是正します」と言い、その年のうちに「近隣諸国条項」が制定されてしまいました。これは「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いについて国際理解と国際協調の観点から必要な配慮がなされていること」という条項です(つまり日本の教科書が、近隣諸国の主張寄りの内容になるということ)。中国関係では「南京事件」、韓国関係では「侵略」「創氏改名」「強制連行」などに対し検定意見が付けられなくなりました。家永・杉本判決以後さらに検定制度の機能不全は深刻化していきます。

●『新編日本史』外圧検定事件 1986年

こうした中、高校日本史教科書の改善を目指し、「日本を守る国民会議」が推進して『新編日本史』をつくりました。文部省の修正意見がつきましたが、それを受け入れて合格。しかし朝日新聞が「復古調の日本史教科書」などと攻撃をし、合格後に超法規的検定をされるという事件が起きました。その修正は4回に及びます。

第1次修正はマスコミによる教科書批判を考慮したと思われる修正で、37か所に及びました(マスコミ検定)。第2次修正は中韓の要求を受けて、我が国の中国侵略を明示するなど4か所でした(外国検定)。第3次修正は外務省主導による修正で80か所に及びました(外務省検定)。第4次修正は文部省によってなされた4か所の修正要求でした(総括検定)。こうして検定に合格した教科書に対し、文部省から違法・不当ともいうべき修正要求が繰り返されたのです。

外部の圧力に全面屈服した情けない検定に直面しながらも、著者グループは泣く泣く修正要求を受け入れ『新編日本史』は日の目を見ました。しかし検定が長引き採択においても不利になり、採択した学校も反対派の圧力を受けて撤回するなど大きな打撃を受けました。