藤岡信勝先生講演録「事件史でたどる歴史教科書問題~検定と採択の過去・現在・未来~」③

●つくる会 第2の危機 平成18年(2006年)

つくる会第2の危機があったのは、平成18年(2006年)のことです。中国人スパイ・李春光(りしゅんこう)による工作により、つくる会分裂へ繋がりました。李春光は「つくる会」分裂の仕掛け人といえるでしょう。

この「李春光」という人物は中華人民共和国駐日大使館の一等書記官でした。しかし虚偽の身分で外国人登録証を取得して銀行口座を開設しウィーン条約で禁ずる商業活動をした疑いや、公正証書原本不実記載の疑いで、警視庁公安部は外務省を通じて李春光の出頭を要請しました。これは2012年(平成24年)の5月中旬のことです。

李春光は対中農産物輸出事業をめぐり農水省大臣らと接触を図り、諜報活動も行っていました。しかし李春光は出頭に応じないまま中国に帰国しました。このことを契機にマスメディアに取り上げられ「李春光事件」として広く知られました。

この李春光が「つくる会」分裂を工作した経緯について説明しましょう。

李春光の名刺があります。一番上に「中國社會科學院日本研究所」と印刷され、その下に「李春光」の名があります。左下にはその所在地が、右下には電話番号などが印刷されています。この「中國社會科學院日本研究所」とは日本への対策を立てる一種のスパイ機関と言ってよいでしょう。

この中國社會科學院で働いていた者が「つくる会」の事務局員と繋がりを持ち、その手引きで、当時の「つくる会」会長と事務局員が会に諮ることなく中國社會科學院を訪問しました。そして何の準備もないままに中國社會科學院によって仕組まれた「学術討論会」に出され、中國社會科學院側の『新しい歴史教科書』に対する批判を許してしまいました。それが2005年(平成17年)の12月のことです。

翌年(2006年・平成18年))5月には当時の会長は中國社會科學院の面々を日本に招待し、都内で会合を持っています。その席に李春光が同席していたことが明らかになっています。この会合でも中國社會科學院側から日本の教科書について注文をつけられました。

こうした工作は李春光事件(2012年)より以前に行われていたことであり、のちに李春光が関わっていたと判明、つくる会分裂と繋がっていったのです。