いじめの報い 

以前(2020年5月)「百人の会」に掲載されていた記事を当会で転載させて頂いたことがあります。今回当会のためにわざわざ記事を投稿していただきました。今話題の小山田圭吾氏のいじめ問題について。

中でリベラルのダブルスタンダード加減、正義感の欠けたマスコミとの癒着・連携について実に詳しく語られています。(仁)

 

「いじめの報い」山之邊雙(やまのべそう)

小山田圭吾氏のいじめ問題について、二つに分けて書いてみた。途中まで書いて、一日放置しておいたら、小山田氏辞任申し出のニュースが入った。そこで、それまでに書いた部分を(一)とし、それ以後の部分を(二)とした。

(一)

東京オリンピックの音楽を担当している作曲家の小山田圭吾という人が大騒ぎを起こしている。

五十代。成人した子供もいる人だが、小学校・中学校・高校と継続してひどいいじめをしていたのである。しかも、二十数年前、三十歳くらいのときに、音楽雑誌のインタビューで、自分が昔いじめをしていたという事実を自慢げに語ったのである。

しかも、そのいじめは極端な、人格を傷つけるようなものだった。その上、被害者は障碍者だったというのだから、社会的に葬りさられるほどの悪事である。

 

このほど、その事実を指摘されて謝罪したが、オリンピックとのかかわりはそのまま続けるという。組織委員会の方でも、辞退を要求したりはしないということ。

今、この人を追放しようという動きが高まり、インタネットで辞任を求める署名運動まで始まった。

しかし、小山田氏は謝罪はしたが、辞任するつもりはないと言明した。

 

組織委員会の会長だった森喜朗元首相は、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と言って物議を醸し、辞任に追い込まれた。

森氏と小山田氏を比較してみると、小山田氏の方が遥かに悪辣なことをしたことは間違いない。敢えて森氏を弁護する必要もないから説明はしないが、小山田氏の方が問題であることは誰の目にも明らかだ。

 

開会式が目前に迫っているから、今更辞任させることはできないという声もあるが、できないことはあるまい。せめて、これから作る文書からは小山田氏の名前を削除するというくらいのことはできるだろう。あるいは、名前は残してやるから報酬は全額返却させるとか、障碍者団体に寄付させるかくらいのことは要求してもいいだろう。

小山田氏が応じないなら、氏の関係する音楽は全部棄てる。新しいものが間に合わないのなら、昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックの時の音楽を探し出して来て使えばよい。そして、この場合も、裁判に訴えても、報酬は全額返却してもらう。

どうして、そのくらいのことができないのか。

森氏の場合と小山田氏の場合とダブスタがひどすぎる。

 

ここで私が思い出したのは、平成三十年(二〇一八)の福田淳一氏(財務次官)と米山隆一氏(新潟県知事)の事件である。

福田氏はテレビ朝日の女性記者にセクハラをした。言葉だけのセクハラである。それを女性記者に録音を取られてしまった。反日の女性記者が虎視眈々と隙を狙って、それまで甘言を弄して、罠にはまるのを待っていたのだ。

米山氏は、女子大生に毎回三万円を払って援助交際をした。しかも、その後発覚したことであるが、複数の女性に同じようなことをしていたというのである。

 

二人とも辞任した。

誰がどう考えても、米山氏の方が罪が重い。

しかるに、マスコミはひたすら福田氏を叩き、米山氏については、報道しない自由を行使した。

言うまでもなく、福田氏は安倍寄りで、米山氏がリベラル(保守から変節したリベラル)だったからだ。

福田氏は天下り先にも困っているというのに、米山氏は次期総選挙に出馬するのだという。おまけにリベラルのチャンピオン・室井佑月氏と結婚してしまった。

援助交際と言えば、女性の人権を蹂躙するという意味で、リベラルから見れば、許しがたい犯罪である。どうしてこんなに簡単に許してしまったのか。

いや、どうしてと問うまでもない。リベラルだからだ。

 

小山田氏に対しては、世論はかなり厳しい態度を取っている。

しかし、マスコミは甘い。森氏の時には辞任しなければすまないと迫っていた新聞もテレビも、見て見ぬふりだ。

さては、米山氏と同じような問題があるのかと思って、「小山田圭吾 リベラル」、「小山田圭吾 反日」、「小山田圭吾 朝日」、「小山田圭吾 関口宏」などと打ち込んでも、それらしき記事にはヒットしなかった。

小山田氏は特別な政治的な立場にはないようだ。

 

では、何故に世論には叩かれるのに、マスコミからは消極的弁護をされるのだろうか。

これは、芸能界とスポーツ界に甘いマスコミの体質が露われたのだ。

福田米山事件と同じ平成三十年(二〇一八)に、プロ野球の中日・阪神・楽天などの監督を歴任した星野仙一氏が逝去した。

 

この人は、選手に対して凄まじい暴力を揮うことで有名だった。気絶させたり、病院送りにした選手までいるとのこと。審判も殴った。それでいて、巨漢の外人選手が義憤に駆られて「俺を殴れ」と迫って来た時には手を出せなかったという。

星野氏は一般人対象のアンケートで「理想の上司」に選ばれたという。田中真紀子や小泉進次郎の場合と同じで、世論というものがどんなにいい加減なものかがよくわかる。進次郎と同じで、イケメンだったから許されたということもあったろう。

 

新聞のスポーツ欄も、星野の暴力を咎めたことはなかった。テレビでも、阿諛追従をするばかりだった。

政府がいじめ問題に関する諮問委員会(?)を設置した時には、その委員に選ばれた。いじめの親玉にいじめ問題を論じさせたのだ。

 

星野氏の晩年には、すでに、いじめは糾弾される時代になっていた。それなのに、星野氏だけは非難されることがなかった。

さらに、氏は平成二十年(二〇〇八)の北京オリンピックでは、長野市を通過する聖火リレーの第一走者になった。中国のチベット弾圧に抗議して、ランナーを辞退する人が続出する中で、星野氏は「国の命令だから」と言って走った。実はサムスンがスポンサーで、莫大なギャラを要求したのだった。

この人、どこまで媚中(および媚韓)だったのかは分からないが、長野で走ったことから、少なくとも日本のマスコミのおぼえがよくなったことは間違いない。

星野氏の悪行の数々は下のURLで見て頂きたい

https://blog.goo.ne.jp/bblue/e/c9e0f982ddf187a36d9c5ff96fcc97a8

 

マスコミは芸能界にも甘い。暴力団員のような無法者や、権力あるプロダクションに属する芸能人が犯罪を犯しても、「被疑者・被告」の肩書を避けて、「稲垣メンバー」などと表記する。

伊勢谷友介の大麻は十数年前の酒井法子の覚醒剤に比べると、非難される度合が小さかった。大麻と覚醒剤は違うなどと言われるが、それよりも、吉永小百合という権力者が伊勢谷を弁護したために、マスコミも逆らうことができなくなったのだろう。

 

今回の小山田氏に対して、マスコミの舌鋒が鈍いのは、音楽関係者を敵に回すのはまずいという忖度があったからに違いない。

マスコミの偏向については前々から言われているが、この「偏向」という言葉を解説すれば、「マスコミと世論の乖離」のことではあるまいか。

二十世紀後半、朝日新聞の論調は、ほとんど完全に日本社会党の主張を鸚鵡返しに言っているようなものだった。今では、立憲民主党は支持率が国民の三%レベルの泡沫政党であるのに、新聞やテレビは、この党こそが民意を代表しているかのように言い募る。

今回の件は、政治問題ではないが、世論は小山田氏の辞任を求めているのに、マスコミが動かない。そこで、組織委も高を括って、嵐が通り過ぎるのを待っている。小山田氏を処分しようとはしない所以である。

 

(二)

ここまで書いた所で、とうとう小山田氏が、辞任する意志を組織委に伝えたというニュースが入って来た。祝着至極の儀である。

もう三日早ければ潔さを褒められる所だった。若干遅きに過ぎた。公開捜査されていることを知った犯人が自首するようなものだ。それでも、辞任を決めたことは評価してやろう。

おそらくは家族から引導を渡されたのだろう。このまま名士の地位に恋々としていたら、家族が表を歩けなくなってしまう所だった。

 

それにしても、氏がオリパラに執着していたら、海外のメディアからどんなに叩かれていたかを想像してみるがよい。

英国の新聞がキャンペーンを張り始めたという。正義感が強いのだ。

私は、日本人は正義感が強いと思っている。だからこそ、慰安婦の強制連行や南京大虐殺は存在しなかったと信じられる。

 

ところが、日本では、正義の味方であるべきマスコミが、全く正義感を欠いているのである。だからこそ、慰安婦の強制連行や南京大虐殺のような、存在しなかったことを事実だったと強弁できるのだ。

だからこそ、小山田氏の件は見て見ぬふりをしたのだ。

何はともあれ、開会式の前に決着が付いたのは幸甚の至りだった。

 

小山田氏の辞任は、社会的に大きな効用がある。

それは、全国の子供たち(「子ども」と書くな)に、「子供の時でもいじめをすると一生浮かばれない」というメッセージを送ることができたということだ。

少年法に守られたワルたちは、「今のうちなら何をしても大丈夫だ」と世の中を舐めている。その安易なイメージを打ち砕かなければならない。小山田氏、怪我の功名で、社会的な功績を残せたのかも知れない。

ひょっとすると、これから、全国的にいじめが減るのではないかと私は期待している。

 

ところで、小山田氏よりはるかに有名な人物が、小山田氏に負けないほどのいじめをしていながら、肩で風を切って歩いている。これを放置しておくのは余りにも片手落ちというものだ。

インタネットに「野田聖子 いじめ」と打ち込むと、山のような記事が出て来る。「野田聖子 茶巾寿司」と打ち込むと、どんないじめをしていたかまで解説してくれる。

皇后陛下の母校であるお嬢様学校(聖心じゃないよ)で、学業成績のよい美人ばかりを標的にして、執拗ないじめを反復した。被害者の中には自主退学をした者、精神疾患に追い込まれた者、数知れずだという。

 

それをしも、支持者の中には、「いたずらっこだったから」と擁護する者がいる。

「いたずらっこ」で済む問題ではあるまい。

小山田氏はこれだけの報いを受けた。

野田氏のケースは、被害者が女性であるだけに、もっと重大な人権侵害ではあるまいか。

 

野田氏の夫は、元暴力団員である。しかも、週刊新潮に対する名誉毀損裁判の際には、裁判所から、「元暴力団員であるというのは事実である」と判示されてしまった。

私の知己の医師によると、「『オラオラ系』の男に魅かれる女は、『虎の威を借りて人を威圧したいという願望が強い』とのことである。洵に、野田聖子氏の為にあるような言葉だ。

そして、マスコミが野田氏を支持する理由は、野田氏が媚中派だからという分かりやすい構造になっている。さらに、媚中派の精神構造が、道義心を欠いて、損得勘定だけで成り立っていることは間違いない。ユニクロの柳井会長がいい例だ。

 

なんとか、「野田氏はいじめっこだったから、首相になれなかった」というメッセージを全国の子供たちに送って欲しいものである。

それでこそ、正義が確立されるというものである。