投稿:「いたずらといじめ」

読者よりの投稿をいただきました。読者の許可のもとで掲載させていただきます。

 

「いたずらといじめ」山之邊 雙

回転寿司のスシローの岐阜市内の店で、高校生が醤油の口を舐め、インタネットでその動画が広まったという事件について、今回店側が6700万円の損害賠償を求めて提訴した。

よかった、よかった、と私は安堵した。

あの事件以来、私も外食産業へ行くのが気持ち悪くてならない。そういう人は多いらしい。日本の食文化が変わってしまうほどの大事件だったのではなかろうか。

子供のいたずらだから寛容な目で見てやれという人も多いが、自分に被害が及んだら、とてもそんな悠長なことを言ってはいられまい。

あの事件はつい今年の一月のことだったのに、その後模倣事件が頻発している。

少年法を甘く見て犯罪を繰り返すワルと同じで、罰せられないとタカを括っているからこんなことになるのだ。一生が消し飛ぶほどの厳罰が与えられると分かったら、軽い気持ちで馬鹿をやる者は激減するに違いない。

ただ、ちょっと可哀想に思うのが、この少年がいわゆるワルではなかったようだということである。

青少年が何をしても、「将来があるのだから」と言って、不問に附すというのが戦後日本の悪弊である。典型的なのが「綾瀬コンクリート殺人事件」だった。それを置いておいて、この少年に厳しい措置を課するのは片手落ちと言えば片手落ちである。

しかし、それを言っていたら、いつまで経っても現状は改革できない。

ワルではなかった点を情状酌量してやると言っても、それは刑法上の問題であり、被害に遭った企業が受忍しなければならないという理窟はない。まあ、現実に6700万円を払わせるわけにも行くまいが。

 

ここで連想されるのが、中学や高校のいじめである。

令和三年(二〇二一)、北海道旭川市の中学校で女子生徒がいじめを苦にして自殺した事件があった。教師たちがまともな対応をしてやらなかったことが事態を悪化させた。インタネットを見ると、担任・教頭・校長がひたすら保身に走って、生徒を見殺しにしたことがよく分かる。

特にN教頭の発言がNHKにまで取り上げられた。ひたすらいじめっ子を弁護し、被害者の母親に向かって、「十人の加害者の未来と、一人の被害者の未来、どっちが大切ですか。十人ですよ。一人のために十人の未来をつぶしていいんですか」と言い放ったという話。

 インタネットに「旭川 いじめ 教頭」と打ち込むだけで、山のような情報が得られる。

 N教頭が日教組の組合員であるかどうかはインタネットでも確認できなかったが、この言いようはまさしく昔ながらの日教組の思想を代弁している。日教組およびそれを支援するマスコミなどは、一九九〇年前後の校内暴力が荒れ狂った時代に、暴力生徒を処分することに反対して、「九十九匹の羊をほうっておいても、一匹の迷える羊を救ってやらなければならない」と言ったものだ。

 

 「十人の加害者の未来と、一人の被害者の未来、どっちが大切ですか」というセリフは「九十九匹の羊をほうっておいても———-」とは正反対のことを言っているようだが、実は発想が同じなのだ。さる外務官僚は拉致事件の解決を妨害して、「たった十人のことで国交回復が遅れてもいいのか」と言ったが、これも同じ人生観を持っているから言えたのである。(それにしても、あんな国と国交回復していたら、また金を搾り取られるだけだった)

 この「九十九匹の羊を—–」の言葉を、意味も分からずに繰り返す人が多いが、出典は聖書。キリストの言葉である。しかし、キリストも自分の言葉がこんなふうに歪められて引用されるとは、さぞかし嘆いていることだろう。

 学校内の暴力生徒は一匹の迷える羊ではなく、狼なのではなかろうか。

 

 このセリフは、「羊の群に狼が入り込んで来ても、刺激しなければ仲良くやって行けるはずだ」と言っているに等しい。媚中派の言い分にも似ている。

 さらにN教頭は、「これは単なる悪ふざけ。いたずらの延長だったんだから。もうこれ以上、何を望んでいるですか」とも言っている。

「いたずらの延長」というのは当たっている。教頭は「だから、厳しく罰してはいけない」と言っているのだが、裏を返せば、いたずらの延長がこんな大事な結果を生むのである。だからこそ、スシローの事件のようないたずらであっても、厳しい措置を取って、いたずらが延長しないような防止策を取らなければならないのである。

 N教頭はインタネットで凄まじい非難を浴びているのに、いまだに教頭を務めているとのこと。弁明もしない、反駁もしない。ひたすら沈黙を決め込んでいるのである。

 教育委員会も日教組に支配されているから、処分できない。考えてみると、いじめっ子よりもこの教頭の方が狼に近いのではあるまいか。

 なお、「十人の加害者———」は自殺事件の後、「いたずらの延長」の発言は事件の前に親が相談に言った時の言葉らしい。

 

 誰が考えても、スシローの事件よりも、旭川中学の事件の方が悪辣である。

 スシロー事件が6700万なら、人命が失われた旭川はいかほどのものになるのだろうか。莫大な金額の損害賠償を請求し、さらには刑事罰を与えなければならない。新聞・テレビは少年法を盾に名前を報道しないが、「頭隠して尻隠さず」とはこのことで、インタネットを見れば、すでにみんな(大津・旭川・スシロー)名前が割れている。大半は顔まで見ることができる。やっと正義が実現される時代が来たのか。

 平成二十三年(二〇一一)の大津の中学校のいじめ事件でも、男子生徒が自殺している。この時も担任をはじめとする周囲の教師たちに日教組組合員が多かった。そして、滋賀県も大津市も首長がリベラルだったために、事件の前にも後にも何の対策を打ち出すことができなかった。

 今、日教組の組織率はどんどん下がっているというが、安心してはいけない。一般の教師たちが日教組的教育観に染まってしまっているのである。一般(非組合員)の教師が、いじめっ子を守り、生徒の切実な訴えに耳を藉さず、自分の利害しか考えないようになっている。教師のサラリーマン化が言われて久しいが、それは日教組の抬頭とともに始まったのだ。

 朝日新聞は滅亡の危機に瀕しているが、朝日新聞的世界観人生観がいまだに世を席捲し、マスコミ界全体(特にテレビ)に理窟にならない理窟を吹きこんでいる。

 

 昔から、青少年保護の美名の下に、子供のいたずらを放置して来たから、こんなことになったのである。旭川いじめ事件の加害者たちはまだ十代であるが、今のうちに厳しい罰を与えておかなければ、綾瀬コンクリート事件の犯人たちのように、またまた何をするか分からない。

 非行少年には「ゼロトリランスで臨め」と言った政治家がいたが、私はこれを支持する。「一切容赦するな」ということである。

 

 不思議なことに、リベラル(マルクスくずれ)は子供に寛容である。ところが、そのリベラルが理想の国と褒め讃える旧ソ連・中国・北朝鮮などはみんな子供のいたずらに厳罰を課していることがよく知られている。ああいう国々では、子供も怖くて悪いことができないのである。

 とすると、子供を甘やかすのはマルクス主義の信念から出ているわけではない。また、いわゆる「日本型リベラル」はリベラリズムという信念を持っているわけでもない。むしろ、アンチ・リベラリズムなのだ。アンチ・リベラリズムなのに、子供の罪を罰してはいけないという所だけ、異様なリベラリズムを信奉している。

 日教組・朝日新聞を代表とする偽リベラルには、一貫した信条なぞ何もない。ひたすら、「どう言ったら世論に受けるかな」と考えるだけだ。

 こうやって、日本は道義的衰退の道を辿って来た。

 私は以前から、朝日新聞は日教組の機関紙であると主張していたが、どちらも、もはや死に体になった。しかるに、いまだにその腐臭が日本全体を覆っている。早いうちに毒蛇の頭を潰しておかないとまた息を吹き返すかも知れない。

以上