投稿「正当防衛の法理」

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正当防衛の法理                      山之邊 雙

 

刑法三十六条(正当防衛)の本文は次のとおりです。

 

(第一項)急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。

(第二項)防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。〈過剰防衛〉

 

特に、第一項の「自己または他人」の部分に注目して下さい。人が襲われているのを救助するために、犯人を傷害・殺害した場合でも、「やむを得ずにした行為」は罰せられないのです。

 

ただ、日本の法律論では、「法益の均衡」ということが言われます。いや、他の国の法律論にもそれはあるのですが、日本はちょっとそれが極端であるように思われます。「急迫不正の侵害」であっても、損害が少ないと思われる場合に、過度の反撃をして、犯人を殺傷した場合には、第二項が適用されて過剰防衛となり、こちらが犯罪者になってしまうのです。一般に日本は、正当防衛の認められる範囲が狭すぎると言われます。

日本式の法益均衡論では、女性がレイプされそうになっている場合に、武器を揮って救出しようとしてはいけないということになります。女性の名誉(貞操)より、犯人の命の方が法益が重いからです。

「素手で立ち向かうべきだ」と言う人がいますが、それは「腕力に自信のない者は正義を実現しようと考えてはいけない」と言っているのです。

 

十数年前に、琵琶湖畔を走る特急列車「サンダーバード」の車内で、暴漢が女性をトイレに連れ込んでレイプするという事件が起こりました。トイレに連れて行かれる途中、たくさんの乗客がそれを目撃しながら、みんな拱手傍観を決め込んだのです。

インタネットでは、その事件の後に、若い男性多数に自分だったらどうしていたかとアンケートを取っていました。かなり多かったのが、「僕だったら注意する」というものでした。こんな事件に際して不謹慎ですが、私は笑ってしまいました。

注意して聴くような相手でないことは明らかです。じゃあ、注意して、犯人を怒らせて、殴られた場合には「僕だったら注意する」の人はどうするのでしょうか。想像力がないから、「注意して反撃されたらどうするのか」までは想像力が及ばないのです。

このような犯罪を犯す相手は、たいていの場合、腕力だけは途方もなく強いと考えなければなりません。常人が素手で立ち向かうことはできないのです。

こんなとき、武器があったら、武器を持って立ち向かうべきなのです。これをしも、「卑怯」という非難をする人は、指を咥えて眺めている方が「卑怯」だとは思わないのでしょうか。

武器がなかったら、まわりの人に呼び掛けて、みんなで犯人に襲い掛かるべきだったのです。これに対しても、「一対一で戦うべきだ」という人がいそうです。

このような正当防衛を批判する人たちは、テレビドラマの見過ぎなのです。テレビドラマでは、ヒーローが恰好よくなければ話になりませんから、素手で一対一の戦いを挑ませます。

現実世界では、「恰好よさ」よりも大事なものがあります。悠長なことを言ってはいられません。列車の中で襲われている女性を救うためには、「法益の均衡」を破って、犯人を殺傷した方が正義が確立されるのではないでしょうか。

先日、栃木県のJR宇都宮線の列車内および自治医大駅のホームで、無法者の喫煙を注意した高校生が重傷を負わされた事件がありました。

他の乗客は見て見ぬ振りをしていました。

武器はともかく、周囲の乗客に呼び掛けて、みんなで犯人を襲撃するという習慣を作ることはできないものでしょうか。そういう事件が報道されれば、リーダーシップを取って、「みんなであの女性、あの高校生を救おう」という人が出て来るはずです。一人や二人はそれに応じる人がいて、それがまた呼び水になって、男性全員が協力するということになるはずです。いや、大半の乗客が協力したら、何もしない人は、討入から脱落した赤穂浪士のように、男の一分が立たなくなりますから、みんなが形だけでも協力するようになるのはそう難しいことではないと思います。

 

正当防衛は自然権であると言われます。自分や家族の生命が危険にさらされている時に、反撃してはいけないなどという理屈が成り立つはずはないのです。ですから、刑法三十六条の正当防衛の規定がなくても、正当防衛が認められるのは当たり前のことなのです。

 

さて、平成二十七年(2015)に、安全保障関連法案(安保法制)が可決されて、集団的自衛権が認められるに至ったのは重畳至極の仕儀でありました。

これ以前には、自衛隊は、自分たちの身を護るためには反撃を許されましたが、それ以外の場合には戦闘行為に従事することはできませんでした。

 

たとえば、紛争地域で、自衛隊が多国籍軍に参加して、オーストラリア軍と一緒に行動していたとします。一キロくらい離れて、並行して進軍していると思って下さい。

自衛隊がゲリラに襲われた場合には、オーストラリア軍が救援に駆け付けてくれるのは当たり前のことです。

ところが、オーストラリア軍が襲われた場合には、平成二十七年以前の法制では、自衛隊は救援に駆け付けてはいけなかったのです。

本当に手を拱〈こまぬ〉いて、何もしなかったら、日本はどんなに世界から軽蔑されていたことでしょう。「平和と正義を愛する諸国民」は、日本は平和と正義の敵だと言って糾弾するに決まっています。

隊長が独断で救援を決断し、ゲリラを殺害していたらどうなっていたでしょう。この隊長は当然、帰国後に殺人罪で起訴されるでしょう。いや、検察側は起訴をためらうかも知れません。その場合は、リベラルが起訴しろと騒ぐでしょう。その結果、リベラルは世論から叩かれて、また左翼政党の票が減る。それは、まあ、いい結果になったというものです。

隊長を刑務所に入れて、それで「正義」が確立されることになると思いますか。ゲリラをのさばらせるという点では、「平和」にも反するのです。

隊長が罪に問われそうになったとき、弁護側はどう対処したらよいのでしょう。

当然、「正当防衛」の法理を援用すべきではないでしょうか。

刑法三十六条の「自己又は他人の権利を防衛するため」に戦うことは許されるという論理は、当然自衛隊が友軍と一緒に行動しているときにも適用されます。

ですから、安保法制が整備される前であっても、自衛隊は外国の軍隊を守るために、ゲリラを射殺することができていたはずなのです。それが「自然権」だからです。

 

そこで、私は、リベラルの主張とは逆の意味で、「憲法九条、改正の必要なし」と訴えたいのです。いや、もちろん、はっきりさせるために、改正をした方がいいとは思いますが、難しかったら、無理に改正しなくてもいいのです。

そして、自衛隊法をどんどん改正して、攻撃用兵器も装備して、緊急事態に備えるのです。リベラルが「憲法違反じゃないか」と因縁を付けて来たら、「そうですね。憲法違反ですね。それがどうかしましたか」と答えればいいじゃありませんか。

こういう時、英語では「So, what?」と言います。「そうですよ。それが何か?」という開き直りです。ドイツ語では、So, was?またはNa, und?と言います。wasはwhat。naはhuh/hmm(ふんふん)。undはandの意味。中「ふんふん。それで?」ということです。中国語にも「那又怎樣」(それがまたどういうことなの)という言い方があります。

 

もし憲法が自衛権を認めていなかったら、それは自然権を侵害しているから無効なのです。法律が憲法に違背することができないように、憲法が自然権に違背することができないのは当たり前のことです。

本当は全く現状のままでも、現地の司令官の独断でやってもいいくらいだと思います。しかし、それでは混乱が生じるでしょうから、自衛隊法だけは整備して置いた方がいいでしょう。憲法なんぞはどうでもいいのです。So, what?なのです。

「憲法がなんぼのものじゃ」と笑おうではありませんか。